花山院と十二妃の墓三田市教育委員会発行「三田の民話」〈上)より

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有馬富士ふもとの霧は海ににて 
           波かと聞けば 小野の松風

 第65代花山天皇は、わずか19才で皇位を去られました。 天皇をやめ、仏門に入られますと、法皇と呼ばれます。
花山法皇となられて、三十三か所の霊場を廻られた後、三田にある紫雲山(しうんざん)にこもられたので、
この寺を花山院と呼ぶようになりました。
 始めの和歌は、法皇が花山院でおつくりになったものです。
 
 法皇が、この山にお入りになったことを風のたよりに聞いた京の十一人の女官たちは、そのあとを慕って、
草深い花山院までたずね、法皇のお世話を申し出ました。
 しかし、ここは女人禁制のため山上に登ることは許されません。 少しでも近い所に住めば、
それだけお世話をすることができます。 女官たちは黒髪を切り落とし、尼(あま)となって山のふもとに住むことになりました。
人びとは、いつしかこのあたりを「尼寺」(にんじ)と呼ぶようになりました。

 そして、ある日のこと、これ以上は立ち入れないという所まで坂を登って、琴を出し、
一生懸命に琴をひいて音色を響かせたものです。
 琴の音を聞いておられた法皇は、修行中の身ですから山を下りることができません。思わず、
「妙(たえ)なる音じゃ。それにしても、女官たちがいとおしいものよ(かわいそうだ)。」
とつぶやかれました。
 法皇のことばを、琴をひくところへ伝えた者がおりました。それを聞いた尼たちは、
 「おいたわしや。」
 「おいたわしや。」
と声をあげて泣きくずれました。
 それからというもの、花の美しい朝、月の満ちた夜などに琴をひいておなぐさめ申しました。
 そんなことがあって、この坂は『琴弾坂』(ことひきざか)と呼ばれるようになりました。
 現在、尼寺の小高い丘の上には、お后(きさき)をまん中にして十一人の女官のこけむした墓があり、椿(つばき)の木がそのまわりをとりまいています。























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